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自分にとっての両親(4) [脊髄損傷・癌]

中学1年の時に親が家を建て袖ヶ浦市に引っ越してきました。
母にとっては念願の自分の家だったようですが、1年もしないうちに父の親である祖母を
引き取ることなり、父とそっくりな性格の祖母に母それから20年近く振り回されることになります。

当時祖母は60代でまだまだ元気で身体も丈夫だったので、母は台所の洗物や風呂掃除等
簡単な家事を頼みましたが、先にも書いたように父と同様で一般的な常識が無い祖母は
台所で洗物をさせると綺麗に洗うことが出来ない、風呂の掃除もいい加減という始末。
それでも自分が基準の常識なので「ちゃんとやった」と言い張るばかりでした。
結局祖母は母の助けとなるような家事は全くできないことがわかっただけでした。

今でも思い出すのは、その後母との間では笑い話のネタになっていることで、お彼岸に
御萩を祖母が造る事になりました(何でそうなったのかは覚えていませんが)。
「出来たから食べな」と言われた御萩を見て、私は「はっ?何これ?」と言いました。
それはおにぎりのような米の塊に小豆の汁と小豆が数粒掛っているだけの物でした。
それでも自分が基準の常識である祖母は「御萩だ」と言い張りました。

そんな祖母が今で言う認知症になったから母はかなり大変でした。
認知症にはいろいろ症状がありますが、祖母の場合は徘徊がひどくて、すぐにいなくなってしまう。
元々が群馬県出身の祖母、群馬県は歩いて行ける距離にあると思い込んでしまっていました。
しかも昔の人なので足腰は丈夫で、袖ヶ浦市の自宅から隣の市原市まで歩いたこともありました。
そんな感じだったので祖母の着る物には母が住所や名前を書いた小さなゼッケンのような物を
縫い付けていたので、ある時には見知らぬ人が祖母を遠くで見付けて家まで送ってくれたなんて
こともあるぐらいの徘徊のひどさで、それを探し回る母の身体にはかなり負担だったと思います。

私はまだ学生だったし、父が家にいればイヤイヤでも車で一緒に探すこともありましたが、
そうでない時は母は自転車で探し回り、見付けると祖母を自転車に座らせて、
押してきていたと言うのだから驚きです。

そしてその頃、母に心配を掛けてしまったのが実は自分です。
高校に入って3年の最初の頃までは部活もやっていたので真面目に通っていましたが、
部活が終わってしまうとバイトとバンドで忙しくて、学校をサボることが多くなってきました。
そんな私を父は「俺の家系にはこんな怠け者はいない」と母に何度も言ってたそうです。
母はその後、自分が産んだ子供が父親からそんな風に言われて悔しかったと話していました。

続く

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