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自分にとっての両親(5) [脊髄損傷・癌]

この話が途中で止まっていたことを忘れていましたので、久々の続編です。

父が私の名前を母に相談も無く勝手に決めて役所に届けてしまった話は既にしましたが、
私が高校を卒業する頃に又しても同じ様なことがあって、父は私を自衛隊に弟を警察にと
勝手に就職させることを決めていたらしくて、そこへ持ってきて私がバイトとバンドで学校を
サボり気味になり、おまけに私が音楽の関連の学校に行くと言うと、もう大変でしたね。

更には後に弟が父の思い通り警察に就職したものだから、弟は自慢の息子、
私は父の家系にはいない怠け者の息子と言う差別がされ、それを態度にはっきり出していました。
しかも私が父の反対を押し切って行った学校を1年で中退して帰ってきましたので、
ますます不仲に、そして実家に戻って私が就職した会社がまたワンマン社長の酷い会社で
まともにボーナスももらえない会社で、当然面白くないので転職を考えて職安へ通うこととなり、
職安に通うためには当然仕事は休むわけで、それがいっそう父の不満となったようです。

そうして最初に就職した職場を1年で退職して、その後27年弱勤めることになる職場へ
転職をこととなったのですが、ちなみに最初の職場も転職後に勤めた会社も電気関係の
メーカーで1年で辞めた職場はTDKの下請け会社でした。

転職先の職場はしっかりした大手電機メーカーだったのでワンマン社長の会社と違って
組合もあって、ボーナスもきちんともらえる会社で、父とは不仲な自分も年末のボーナスの時は
決まって父には御歳暮的な物を送ったりもしていたのですよ。
学生の時とは違って、真面目に仕事には休まず通っていたし、学生の時だって部活をしている頃は
真面目に通っていて、部活が引退してサボり気味の時だってアルバイトは真面目にしていました。
多分自分はバイト代とか給料とか見返りがあるものならちゃんと出来ると言うことかもしれませんね。

その頃から父も自分もお互いに触らぬ神にたたりなしと言う感じでお互いを避けるようになりました。
私が20代後半の頃だったか?母の弟である私の叔父が同居することになった。
叔父は離婚して、子供達は叔母さんの方に行ったので一人となり、しばらくは母の実家がある
町田市や相模原周辺で一人暮らしをしていましたが、とにかく酒とゴルフが好きな人で
ゴルフ場で仕事をすることを望み、ゴルフ場の多い千葉県に住んでいた母を頼って来たのです。

続く

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自分にとっての両親(4) [脊髄損傷・癌]

中学1年の時に親が家を建て袖ヶ浦市に引っ越してきました。
母にとっては念願の自分の家だったようですが、1年もしないうちに父の親である祖母を
引き取ることなり、父とそっくりな性格の祖母に母それから20年近く振り回されることになります。

当時祖母は60代でまだまだ元気で身体も丈夫だったので、母は台所の洗物や風呂掃除等
簡単な家事を頼みましたが、先にも書いたように父と同様で一般的な常識が無い祖母は
台所で洗物をさせると綺麗に洗うことが出来ない、風呂の掃除もいい加減という始末。
それでも自分が基準の常識なので「ちゃんとやった」と言い張るばかりでした。
結局祖母は母の助けとなるような家事は全くできないことがわかっただけでした。

今でも思い出すのは、その後母との間では笑い話のネタになっていることで、お彼岸に
御萩を祖母が造る事になりました(何でそうなったのかは覚えていませんが)。
「出来たから食べな」と言われた御萩を見て、私は「はっ?何これ?」と言いました。
それはおにぎりのような米の塊に小豆の汁と小豆が数粒掛っているだけの物でした。
それでも自分が基準の常識である祖母は「御萩だ」と言い張りました。

そんな祖母が今で言う認知症になったから母はかなり大変でした。
認知症にはいろいろ症状がありますが、祖母の場合は徘徊がひどくて、すぐにいなくなってしまう。
元々が群馬県出身の祖母、群馬県は歩いて行ける距離にあると思い込んでしまっていました。
しかも昔の人なので足腰は丈夫で、袖ヶ浦市の自宅から隣の市原市まで歩いたこともありました。
そんな感じだったので祖母の着る物には母が住所や名前を書いた小さなゼッケンのような物を
縫い付けていたので、ある時には見知らぬ人が祖母を遠くで見付けて家まで送ってくれたなんて
こともあるぐらいの徘徊のひどさで、それを探し回る母の身体にはかなり負担だったと思います。

私はまだ学生だったし、父が家にいればイヤイヤでも車で一緒に探すこともありましたが、
そうでない時は母は自転車で探し回り、見付けると祖母を自転車に座らせて、
押してきていたと言うのだから驚きです。

そしてその頃、母に心配を掛けてしまったのが実は自分です。
高校に入って3年の最初の頃までは部活もやっていたので真面目に通っていましたが、
部活が終わってしまうとバイトとバンドで忙しくて、学校をサボることが多くなってきました。
そんな私を父は「俺の家系にはこんな怠け者はいない」と母に何度も言ってたそうです。
母はその後、自分が産んだ子供が父親からそんな風に言われて悔しかったと話していました。

続く

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自分にとっての両親(3) [脊髄損傷・癌]

中学1年の3学期に親が建てた家に引っ越すことになり、当然転校になりました。
この転校した先の中学校が後の自分のやりたいことが出来たことと、前に書いた父の実家が
人手に渡ることになり、その後すぐに祖父が他界してしまったために祖母を引き取ったこと、
この2つの出来事が原因で父との溝が深まり、母寄りに自分が成っていったのだと思います。

まず転校した中学校ですが、バンド活動が凄く盛んな中学校でした。
自分も小学校の時からまわりの大人(父以外の)の影響で、洋楽を好んで聴いていたぐらいなので、
すぐにバンドをやりたいと母に少し出資を頼んでエレキギターなるものを手にしました。
そしてこの頃から日本のロックバンドの曲も聴くようになったわけなのですが、とにかくそういう音楽を
演歌一筋の父は理解してくれないし、ギターを弾いていると「うるさい」と文句を言われるわけです。

そしてもうひとつは父が田舎から祖母を引き取ったことにあります。
父としては自分の親が住んでた家を他人に取られて住む場所が無いのだから引き取るのは
当然のことで、普通なら自分も母も仕方がないことなんだと理解も出来るのですが、
この父と祖母は非常に性格的に似ていて、簡単に言ってしまうと常識が無い。
言い方を変えるとこの二人の常識は一般常識ではなく、自分自身が中心の常識でした。

例えば父はよく体調が悪い時の母に対して「身体の弱い女房を持つと苦労する」等、
今の夫婦なら即離婚になるようなことを言ったり、高校生の時に私が授業をサボったりすると
「俺の家系にはこんな怠け者はいない」等と言われ、母も自分も悔しい思いをさせられました。

その父の家系ですが、父の弟(私の叔父)は我家に転がり込んで、近所の大工さんに弟子入りして
働いていたが仕事で何か問題を起こすと、父がその大工さんの家に怒鳴り込んで文句を
言ったりしていましたが、当時子供だった自分ですらどう考えても落ち度は叔父の方にあるのに、
何と言っても一般常識が無くて、自分中心の常識なので、母の血が入っている自分は
怠け者扱いで、実際に怠けていた自分の兄弟の叔父はかばう、おかしな話ですよね。
後々に母によく自分が言っていたのですが「父の家系にはいないと言われて嬉しかったよ」と。
だってそうですよ、こんな非常識な家系の人たちとは一緒にされたくないと思いましたからね。

そしてその父や叔父の母親である祖母、この人がまた凄い非常識な人で、こんな話があります。
ある日、祖母が私にお菓子をくれました、名前は忘れましたが確かポテトチップス系のお菓子です。
私はそれをすぐに食べなかったのですが、自分の部屋のテーブルに置いてありました。
それが2日後ぐらいになくなったのですが、探してみると祖母が食べていました。
「何でだ?」と聞くと「食べないからいらないのでしょう」と、非常識でしょう。
この祖母の確認もしないで勝手に決めてしまう、現在の父が全くもって同じなのです。

この私が中学生の頃に我家は父と祖母、母と私、そして無関心な弟に分裂したような感じです。
そしてその後、その非常識な祖母が今で言う認知症になってしまって、元々常識がない人が
わけわからなくなってしまったために、母は相当大変で、私はそれをずっと見てきたわけです。
そして非常識な家系の父や叔父、叔母達も皆揃って、認知症の祖母は母に押し付けただけでした。

続く

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自分にとっての両親(2) [脊髄損傷・癌]

父の「俺の法則に従うように」なんて理由で名前を付けられた自分ですが、
子供の頃から何でも食べる弟に対して好き嫌いが多かった自分、よく怒られたのを覚えています。
父には結構げんこつや張手をくらって、小さい頃は怖い父と言う印象でしたね。

この当時は母も結構厳しくて、誰にでも1度くらいは覚えがあると思いますが、
さすがに人様のお金を盗んだことは無いですが、母の財布からくすねたことはあります。
何度か繰り返しているうちに見付かって、朝だったのですが、母の怒りは激怒と言う感じで
その日は学校を休まされて、お灸を据えるという言葉を聞いたことがあるでしょうか?
線香に火を付けて先端が赤くなりますよね、それを手に当てられましたからね。

この時の話は母と自分の間では笑い話になっていて、「今だったら虐待だよ」とか
「熱い線香を押し付けた息子に今介護されているんだぜ」等と自分は言いました。

それから自分が中学に入学してすぐに我家は新築して引っ越すわけなのですが、
この新築の時にも父と母の間では意見の相違があったと母から何度も聞いていました。
母はどうしても自分の家が欲しかったそうですが、対して父の方は金が掛かるから家はいらない、
家なら群馬に自分の実家があるからそこに住めば良いからと言ったそうです。
ところがその群馬県の父の実家はその後、父の両親(自分の祖父と祖母)が借金のかたに
取られて、当時自分が聞いた話では200万円で買い戻せたそうですが、父にはその力も無く、
結局、父があてにしていた群馬の実家も人手に渡ってしまいました。

そして母の強い希望でまずは土地を購入することになったそうなのですが、
母が自分の親が残してくれた遺産としてもらったお金をつぎ込んで土地を買ったそうです。
更にローンを組んだりするのに銀行や住宅金融公庫を走り回ったのは母で、父は知らん顔。
家が建ったら途端に「俺の家、俺の家」だそうです(情けない)。

そしてそれから約30年後に今度は自分が家を建てようと決心をするわけですが、
「男として生まれたからには1度は大きな買い物をしたい、自分の家が欲しい」
自分はそう思っていると母に伝えて、「大変だよ」と言う母を説得して家を建てたのです。

どう思うでしょうか?男に生まれたからにはお金がもったいないとか、今住んでる家が
あるからではなく、力試しではないですが、ここまで出来るだけの力を持てたよという
証のようなものじゃないでしょうか?
大きな買い物と言うのは、その辺の考えの違いが父と自分の溝が深まった理由でもあります。

続く

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自分にとっての両親(1) [脊髄損傷・癌]

早いもので母が亡くなってからもう1ヶ月が過ぎようとしています。
まあ心配してくれている人がいるかどうか?知りませんが、私は元気にしています。
明日8月3日は東京ドイツ村で花火大会があって、去年までは母を車に乗せて
花火が良く見える場所に車を止めて見ていましたが、今年はそれも必要無くなりました。
花火の音が聞こえるでしょうが、何だか寂しい気持ちになると思います。[もうやだ~(悲しい顔)]

このブログは実は最初はサブタイトルにもあるように母が脊髄損傷になってから始めました。
身体が不自由になっても何とか動きを取り戻したいと頑張っている母の記録のためにです。
ただ最近は競馬の話が断然多くなってしまっいますけれどね。[わーい(嬉しい顔)]

このブログを読んでくれている人達は「また母親の話かよ」と思うかもしれませんね。
父親もいるのにこのブログにはほとんどと言って良いほど父の話は出てきません。
マザコンか?と思う人もいるかもしれませんが、何故自分が母のために一生懸命に
やってこれたのか?かなり長くなってしまいますが、何回かに分けて書きたいと思います。
中には父親の悪口を書いているように感じる人もいるでしょうが、それは構いません。

話は母から何度も聞かされた私が生まれるところから始めます。
私は生まれは東京、地名で言うと錦糸町だそうで、スカイツリーの周りだそうです。
母は私がお腹にいる時に妊娠中毒症という病気があったそうで、医師からは
「子供は諦めて下さい」と言われたと聞いています。

それを聞いた父は病院から家に帰ってしまって、私が生まれてしばらくするまで来なかったそうです。
そんな状態で私を産んでくれた母と対照的に見捨てた父、この時もちろん生まれたばかりの
自分には何もわかるはずは無いですが、この時から既に父との溝は出来てたかもしれません。
隣に住んでいた方が家にいた父を見て「御主人何しているの!子供生まれたんですよ」
そして多分その時に生まれたのが男の子だと言うのも知ったのでしょうね。

父は病院に来るよりも前に勝手に子供の名前を決めて、役所に出生届けを出したそうです。
そして母の病院に現れた父が名前を決めてきたことを聞いて、「何でそんな名前に、勝手に」
思ったと聞いていますが、その名前が私の名前、私自身も自分の名前には不満でしたね。

私の名前は読み方としては4文字で★★のり、だからこのブログのニックはノリなのです。
さてその漢字と父が言ったとんでもない名前の由来が凄いんですよ。
私の名前は漢字2文字で1文字目は父の名前から1文字、そして2文字目が法律のなのです。
漢字で★法、父いわく1文字目に自分の名前を入れて「俺の法則に従うように」だそうです。

考えられますか?今の時代子供の名前を決める時は画数がいくつだとか、皆本まで買って
夫婦で悩んで決めるのに、何が俺の法則だ!と言う思いが今でもあります。
この件があって、私には2歳下に弟がいますが、弟の名前は母が決めたそうです。

子供が危ないと知ったらさっさと家に帰ってしまい、生まれたら生まれたで相談も無しに
勝手に名前を決めて、母は最近まで何かに付けてこの話をしていましたが、
その度に私は「そんな名前付けるから法則には従わない子供に育ったのだ」と答えていました。

続く

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母の最期(3) [脊髄損傷・癌]

意外に母がしっかりしていたので弟夫婦は安心して帰っていきました。
これで弟はその数時間後に訪れる母の最後には立ち会えませんでした。

自分が「疲れたろ、少し寝なよ」と言っても母は寝ませんでした。
もしかしたら寝てしまったらもう終わりなんだと思っていたのかもしれませんね。
それからこちらに向っている母の姉妹達を待っている間に母といろいろ話をしました。
数時間後に別れが来る親子の会話とは思えないような話もしていました。

訪問看護師さんから水も飲ませては駄目だと言われていましたが、母が水が飲みたいと
言い出したので飲ませてしまったし、1年前に母のリクエストで杏ジャムを造った時に
母には凄く好評だったので、実は前夜母の体調がおかしくなる前に今年も杏ジャムを造りました。
その話をすると「食べたい」と言うので「本当は駄目なんだからね」と言いながら
ハーゲンダッツのバニラアイスに杏ジャムを掛けた物を食べさせました。
これが普通の食べ物として母が最後に食べたもので「美味しい、美味しい」と喜んでました。
亡くなる1時間前ぐらいに痛みが出て、薬をお湯で溶いて飲むゼリーと飲ませましたが、
普通に母が最後に口に入れた食べ物は杏ジャムの掛かったバニラアイスです。

16時半頃に母の姉妹である叔母2人と母の亡き兄弟の子供、姪っ子と甥っ子の嫁さんの
女性ばかり4人で、一番遠くから来たのが岐阜に住んでいる母の妹です。
母は4人全員とひとりひとりちゃんと会話をしていました。
この後に母が痛みを訴えたので薬をお湯で溶いて飲むゼリーと一緒に飲ませました。
そしてしばらくしてから4人には道中疲れただろうからとお茶を入れて下で一息入れてもらい、
再び2階の母の部屋には母と自分の2人だけになり、また少し話をしました。

17時を過ぎた頃に姪っ子(自分にとっては従兄弟)と甥っ子の嫁さんがあがってきて、
「しばらく交代するから下でお茶を飲んで来なよ」と言われて、1階に行き
お茶を飲んでいると甥っ子の嫁さんが降りて来て「ちょっと来て、何だか息が弱くなっちゃった」
慌てて2階に上がるとほんの15分前ぐらいまで普通だった母の呼吸はもう虫の息でした。

そして訪問看護師さんから聞いていた通り呼吸の間隔が段々長くなってきました。
息をすると30秒以上息をしない、軽くほっぺたを叩いて「お袋、頑張れ」と声を掛けると
再び息をしますが、また止まる、母の妹である岐阜の叔母も「姉ちゃん、姉ちゃん」と声を掛けると
また呼吸をする、訪問看護師さんから聞いたのですが、人間は意識が無くても耳は聞こえるらしく、
私たち家族が声を掛けると頑張って呼吸をしている感じでした。

そんなことがどれくらい続いたのか、叔母達は必死で母を呼び戻そうとしていましたが、
自分は意識が無いのに必死で呼吸をしている母を見て、口には出しませんでしたが、
心の中で「もういいよ、楽になって」と思っていたら、最後に大きく肩をあげて息をしたかと思ったら、
スッ~と力が抜けて母が凄く楽な顔をしたのを見て、「ああ、これが最後だろうな」と思いました。

私の心の声が聞こえたのでしょうか?母も満足したのか?それで2度と呼吸をしませんでした。
2013年7月7日17時45分、母は76年と7ヶ月ちょっとの人生にピリオドを打ちました。
叔母達はそれでも身体をさすったり、声を掛けていましたが、今までは口に出さなかった自分も
ここで叔母たちに「今まで充分頑張ったんだから、もう楽にさせてあげましょう」と言いました。

その後、訪問看護師さんと医師が死亡の確認をしました。
それにしても凄い、俺が休みの日に逝ってくれという約束を守って日曜日、
その日に来る予定の家族全員とちゃんとお別れをして、見事な最後でした。
訪問看護師さんが見守っていた家族全員の前で言いました。
「こんな完璧な幕引きをする人はまずいないのですよ、お母さんは凄い人です」
私も自分の母のことながら本当に立派で自慢の母でした。

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主がいなくなってしまった車椅子 PHOTO by のりさん
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主がいなくなってしまったベッド PHOTO by のりさん
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母の最期(2) [脊髄損傷・癌]

訪問看護師さんに言われたとおり6日の晩は寝ないで母の様子を見ていました。
それで自分はこの日いつもの週末と同じ様に競馬の予想をして、馬券を購入して、
更には予想をブログにまで投稿して、親が危篤状態なのに不謹慎だと思われることでしょう。
しかし寝ているだけの母を見ているだけで時間を過ごすのには、そんなことでもしていないと
不安になってしまって、しかも母は自分が馬券を当てたりすると喜んでくれるので、、、。

朝の9時頃になった時に自分は昨日電話をくれた岐阜の叔母に電話をしましたが、出ない。
仕方なく母の姉である神奈川に住んでいる叔母に電話をして、母が危篤であることを伝えると
これから岐阜の叔母も含めて親戚達に連絡をしてくれることになりました。

7日の日曜日は母の寝ている部屋で自分と父は1日中付き添いました。
母が癌ではないかという疑いが掛かった時に母から「頼むから正直に何でも話してくれ」
懇願されていましたので、自分は癌であることがわかった時には正直に話をしましたし、
普段から「最後をちゃんと見届けたいから逝くのは俺が休みの日にしてくれ」とか
「お袋だけは幽霊になっても出てきて良いからな」等と冗談のような話を真剣にしていました。

そしてこの危篤に陥った日曜日にもそんなこと言わなくてもいいじゃないかと思う人もいるでしょうが、
「残念だけど、あと1日か2日で駄目みたいだ」と母に伝えると「やっぱりそうか」と答えました。

その後、神奈川の叔母から電話があり岐阜の叔母もこっちに向っているとのこと、
それと母の兄弟で亡き叔父達の娘(母の弟の)と息子(母の兄の)の嫁さんの4人で
来ると連絡がありましたが、無事に全員と会えるかどうか?ちょっと不安でした。

母は危篤状態と言っても普通に会話が出来ていたので、本当に危篤なのかと感じました。
時々喉の渇きを訴えたので氷を水で溶かして小さくして食べさせていました。
自分は何度か手の指や足の指を確認しましたが、訪問看護師さんの話の通り、
手の指先は血行が悪いらしく、紫色に変色してきました。

そしてお昼前に訪問看護師さんが訪ねてきて、再び血圧や酸素濃度を調べていました。
酸素濃度は昨夜85%あったのが既に60%台まで低下してきていました。
そして訪問看護師さんは「これからしばらくすると呼吸の間隔が段々長くなってきます。
その間隔が1分近く開くようになったら連絡を下さい。」と言って帰っていきました。

訪問看護師さんと入れ替わるように午後すぐに弟夫婦がやって来ました。
弟が母に声を掛けると母は「もうすぐ死んじゃうよ、怖いよ、、、後のこと頼んだよ」
後で弟がそう言う会話をしたと話してくれました。
しかし弟は声が出ずらくはなっているものの母がしっかりと話をしていたので、安心したのか
仕事も忙しいとのことで3時間程滞在していただけで、帰って行きました。

続く

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母の最期(1) [脊髄損傷・癌]

生まれてから40年以上、死の瞬間に立ち会ったのは初めてのことでした。
母が昔どこかの占い師に見てもらった時に自分が両親とは縁が薄い子供で
両親の死に目には会えないと聞いていたのに、立ち会うことができました。

話は7月6日(土曜日)の夕方、母の妹で岐阜に住んでいる叔母から電話がありました。
内容は今週中に会いに行きたいけどいいか?ということで、もちろん歓迎すると答えました。

その後、21時頃に我家はいつものことですが遅い夕食を食べていました。
母は車椅子に座って、2階から降りて来て、いつものように一緒に食事を食べていました。
量は食べられませんが、母はこの日まで自分たちと同じような食事を食べていました。
同じ様なと書いたのは豆腐や味噌汁等の堅くないものが中心だったからです。

しかし6日の夜は途中で普通の食事はいらないと言うので、
それではと「飲むゼリーとかプリンにするかい?」と聞くと、
うなずいたので飲むゼリーを一口だけ口に入れたところ普通に飲み込みました。
そして2口目をと思ったところ、眼つきが変なので「どうした?」と聞くと返事をしない。
頬を軽く叩いて呼んでみても全く返事は無い、目は普通に開いているのに、
これは普通ではないと思った私は2階に連れて行き、すぐにベッドに寝かせました。
そうするとしばらくして意識が戻りました。

母が最後は家でと言う希望で、それを叶えてあげるためにこう言う緊急時には
まず訪問看護師さんに連絡することになっていて、訪問看護師から往診してくれていた医師に
連絡をすると言う手順になっていましたので、訪問看護師さんに連絡をして来てもらいました。

訪問看護師さんが来て、母に「こんばんは、大変でしたね」と声を掛けると、母も普通に
「こんばんは、御世話になります」と答えていたので、自分にはことの重大さがわかりませんでした。
その後訪問看護師さんは熱を測ったり、血圧を調べたり、酸素濃度を調べました。
そして私に「ちょっと下でお話しましょう」と言われ、食事をしていた場所に行きました。

訪問看護師さんの話は「意識が無くなったのは貧血が原因です、もう身体は起こさない方が良い。
熱があるのでアイスノン等で冷やしましょう、血圧は元々低いので特に問題はないです。
酸素濃度がつい最近まで95%あったのに、今は85%ぐらいに下がっています。
既に喉を使った呼吸をしていますので、しばらくすると顎で呼吸するようになると思います。
こう言う状況になると、だいたいの場合24時間~2日が限界です。
徐々に酸素の取込が出来なくなり指先から変色(黒ずむ)してくると思います。
もう呑み込むことも出来ないと思うので、水も薬も飲ませないで、
喉が渇くと言ったら氷を水で小さくして口に入れてあげて下さい。
会わせたい人がいたら早目に連絡を取った方が良いですよ」と重い言葉が続きました。

私が「それは危篤状態と言うことですか?」と聞くと訪問看護師さんは「そうです」と答えました。
訪問看護師さんが帰る前に母が痛みを訴えて、どうすれば良いか?たずねると
それではと薬(錠剤)を少量のお湯で溶いて、飲むゼリーと一緒に飲ませる方法を取りました。
そして今後も痛みが出たら同じ様に薬を飲ませるようにと言われました。

最後に訪問看護師さんは母に「本当にここで最後までいいの?」と聞いていました。
どうも往診してくれる医師も訪問看護師さんも私のエゴで母を入院させないと思っているようです。
しかし母が「はい!」としっかり答えてくれました。

訪問看護師さんが帰った時には既に23時を過ぎていました。
取り敢えず弟にだけ連絡をすると、明日には来るとのことでした。
そして訪問看護師さんから今晩はずっと付いているように言われていましたので、
自分は風呂に入る時意外はそばで一晩徹夜をしました。

続く

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お知らせ [脊髄損傷・癌]

昨日、突然母が逝ってしまいました。

そう言う訳でしばらくお休みします。

いつも訪問させていただいている皆様のブログにも訪問ができません。

ブログを再開しましたらまた宜しくお願いします。
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癌は熱に弱い? [脊髄損傷・癌]

知っていますか?癌細胞は熱に弱いらしいです。
癌患者が結核やマラリヤ等になり高熱を出した後に癌が小さくなった話があるそうです。
青森でしたかね?温泉で癌患者が集まって岩盤浴している温泉がありますよね。

人間の身体を形成している細胞は43℃くらいの温度で死滅するようになっているそうです。
癌細胞も同じように死滅するそうです。
だからと言って体温をそんなに上げてしまったら命が持ちません。

ところが正常な細胞は自律神経によって体温が上がると血管を広げたり狭めたりして
体温コントロールが出来るのに対して癌細胞はと言うと血管の構造が脆く出来ていて
しかも自律神経が正常に繋がっていないため体温コントロールが出来ないそうです。
だから正常細胞よりガンの部位は3℃から3.5℃ほど温度が上がるので、正常細胞で
40℃くらいの温熱をかけると、正常細胞は傷つかずにガン細胞は参ってしまうわけです。

それとこれは要注意の話で熱に弱い癌細胞、と言うことは体温が低いと増殖しやすいそうです。
日常の体温が35℃台の人は癌になる可能性があると言うことらしいです。
そんな話を書いている自分も体温は常に35℃台で、しかも愛煙家であり、
自分の身内が肺癌になっていることから特に注意が必要な体質なのかもしれません。

熱に弱い癌細胞、だったらそう言う治療をすれば良いのにと誰でも考えますよね。
実際そう言う治療法もあってハイパーサーミアというものです。
しかしこれがまた何故かよくわからないのですが、あまりやっている病院がなくて、
実施している病院も保険がきくところときかないところがあったりします。

身体が不自由と言う理由で治療は勧められないと言われた我家の母ですが、
代替療法を受けるほどの余裕も無い、それでもただいつになるかわからない最後の時を
待っているだけと言うのも馬鹿げていると思って、これまた調べたところ自宅で出来る
温熱療法というのがあることを知りました。

ネット上でも良く言われていますがこう言う患者やその家族の弱みに付け込んだ
商売がいろいろあって、過大広告で癌が治った等とうたって売っている道具や
サプリメントがいろいろ、そう言う中から自分は騙されたとしてもあまり損の少ない物を
選んで、もちろんそれで完治するとか甘い考えは持っていませんが、少しでも
身体が楽になれるなら、少しでも長く生きられるのなら、そう言う期待をして
複数のサプリメントと温熱療法用の道具を購入しました。

次はそう言う道具やサプリメントに関して報告したいと思っています。
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