母の最期(3) [脊髄損傷・癌]
意外に母がしっかりしていたので弟夫婦は安心して帰っていきました。
これで弟はその数時間後に訪れる母の最後には立ち会えませんでした。
自分が「疲れたろ、少し寝なよ」と言っても母は寝ませんでした。
もしかしたら寝てしまったらもう終わりなんだと思っていたのかもしれませんね。
それからこちらに向っている母の姉妹達を待っている間に母といろいろ話をしました。
数時間後に別れが来る親子の会話とは思えないような話もしていました。
訪問看護師さんから水も飲ませては駄目だと言われていましたが、母が水が飲みたいと
言い出したので飲ませてしまったし、1年前に母のリクエストで杏ジャムを造った時に
母には凄く好評だったので、実は前夜母の体調がおかしくなる前に今年も杏ジャムを造りました。
その話をすると「食べたい」と言うので「本当は駄目なんだからね」と言いながら
ハーゲンダッツのバニラアイスに杏ジャムを掛けた物を食べさせました。
これが普通の食べ物として母が最後に食べたもので「美味しい、美味しい」と喜んでました。
亡くなる1時間前ぐらいに痛みが出て、薬をお湯で溶いて飲むゼリーと飲ませましたが、
普通に母が最後に口に入れた食べ物は杏ジャムの掛かったバニラアイスです。
16時半頃に母の姉妹である叔母2人と母の亡き兄弟の子供、姪っ子と甥っ子の嫁さんの
女性ばかり4人で、一番遠くから来たのが岐阜に住んでいる母の妹です。
母は4人全員とひとりひとりちゃんと会話をしていました。
この後に母が痛みを訴えたので薬をお湯で溶いて飲むゼリーと一緒に飲ませました。
そしてしばらくしてから4人には道中疲れただろうからとお茶を入れて下で一息入れてもらい、
再び2階の母の部屋には母と自分の2人だけになり、また少し話をしました。
17時を過ぎた頃に姪っ子(自分にとっては従兄弟)と甥っ子の嫁さんがあがってきて、
「しばらく交代するから下でお茶を飲んで来なよ」と言われて、1階に行き
お茶を飲んでいると甥っ子の嫁さんが降りて来て「ちょっと来て、何だか息が弱くなっちゃった」と
慌てて2階に上がるとほんの15分前ぐらいまで普通だった母の呼吸はもう虫の息でした。
そして訪問看護師さんから聞いていた通り呼吸の間隔が段々長くなってきました。
息をすると30秒以上息をしない、軽くほっぺたを叩いて「お袋、頑張れ」と声を掛けると
再び息をしますが、また止まる、母の妹である岐阜の叔母も「姉ちゃん、姉ちゃん」と声を掛けると
また呼吸をする、訪問看護師さんから聞いたのですが、人間は意識が無くても耳は聞こえるらしく、
私たち家族が声を掛けると頑張って呼吸をしている感じでした。
そんなことがどれくらい続いたのか、叔母達は必死で母を呼び戻そうとしていましたが、
自分は意識が無いのに必死で呼吸をしている母を見て、口には出しませんでしたが、
心の中で「もういいよ、楽になって」と思っていたら、最後に大きく肩をあげて息をしたかと思ったら、
スッ~と力が抜けて母が凄く楽な顔をしたのを見て、「ああ、これが最後だろうな」と思いました。
私の心の声が聞こえたのでしょうか?母も満足したのか?それで2度と呼吸をしませんでした。
2013年7月7日17時45分、母は76年と7ヶ月ちょっとの人生にピリオドを打ちました。
叔母達はそれでも身体をさすったり、声を掛けていましたが、今までは口に出さなかった自分も
ここで叔母たちに「今まで充分頑張ったんだから、もう楽にさせてあげましょう」と言いました。
その後、訪問看護師さんと医師が死亡の確認をしました。
それにしても凄い、俺が休みの日に逝ってくれという約束を守って日曜日、
その日に来る予定の家族全員とちゃんとお別れをして、見事な最後でした。
訪問看護師さんが見守っていた家族全員の前で言いました。
「こんな完璧な幕引きをする人はまずいないのですよ、お母さんは凄い人です」と
私も自分の母のことながら本当に立派で自慢の母でした。
主がいなくなってしまった車椅子 PHOTO by のりさん
主がいなくなってしまったベッド PHOTO by のりさん
これで弟はその数時間後に訪れる母の最後には立ち会えませんでした。
自分が「疲れたろ、少し寝なよ」と言っても母は寝ませんでした。
もしかしたら寝てしまったらもう終わりなんだと思っていたのかもしれませんね。
それからこちらに向っている母の姉妹達を待っている間に母といろいろ話をしました。
数時間後に別れが来る親子の会話とは思えないような話もしていました。
訪問看護師さんから水も飲ませては駄目だと言われていましたが、母が水が飲みたいと
言い出したので飲ませてしまったし、1年前に母のリクエストで杏ジャムを造った時に
母には凄く好評だったので、実は前夜母の体調がおかしくなる前に今年も杏ジャムを造りました。
その話をすると「食べたい」と言うので「本当は駄目なんだからね」と言いながら
ハーゲンダッツのバニラアイスに杏ジャムを掛けた物を食べさせました。
これが普通の食べ物として母が最後に食べたもので「美味しい、美味しい」と喜んでました。
亡くなる1時間前ぐらいに痛みが出て、薬をお湯で溶いて飲むゼリーと飲ませましたが、
普通に母が最後に口に入れた食べ物は杏ジャムの掛かったバニラアイスです。
16時半頃に母の姉妹である叔母2人と母の亡き兄弟の子供、姪っ子と甥っ子の嫁さんの
女性ばかり4人で、一番遠くから来たのが岐阜に住んでいる母の妹です。
母は4人全員とひとりひとりちゃんと会話をしていました。
この後に母が痛みを訴えたので薬をお湯で溶いて飲むゼリーと一緒に飲ませました。
そしてしばらくしてから4人には道中疲れただろうからとお茶を入れて下で一息入れてもらい、
再び2階の母の部屋には母と自分の2人だけになり、また少し話をしました。
17時を過ぎた頃に姪っ子(自分にとっては従兄弟)と甥っ子の嫁さんがあがってきて、
「しばらく交代するから下でお茶を飲んで来なよ」と言われて、1階に行き
お茶を飲んでいると甥っ子の嫁さんが降りて来て「ちょっと来て、何だか息が弱くなっちゃった」と
慌てて2階に上がるとほんの15分前ぐらいまで普通だった母の呼吸はもう虫の息でした。
そして訪問看護師さんから聞いていた通り呼吸の間隔が段々長くなってきました。
息をすると30秒以上息をしない、軽くほっぺたを叩いて「お袋、頑張れ」と声を掛けると
再び息をしますが、また止まる、母の妹である岐阜の叔母も「姉ちゃん、姉ちゃん」と声を掛けると
また呼吸をする、訪問看護師さんから聞いたのですが、人間は意識が無くても耳は聞こえるらしく、
私たち家族が声を掛けると頑張って呼吸をしている感じでした。
そんなことがどれくらい続いたのか、叔母達は必死で母を呼び戻そうとしていましたが、
自分は意識が無いのに必死で呼吸をしている母を見て、口には出しませんでしたが、
心の中で「もういいよ、楽になって」と思っていたら、最後に大きく肩をあげて息をしたかと思ったら、
スッ~と力が抜けて母が凄く楽な顔をしたのを見て、「ああ、これが最後だろうな」と思いました。
私の心の声が聞こえたのでしょうか?母も満足したのか?それで2度と呼吸をしませんでした。
2013年7月7日17時45分、母は76年と7ヶ月ちょっとの人生にピリオドを打ちました。
叔母達はそれでも身体をさすったり、声を掛けていましたが、今までは口に出さなかった自分も
ここで叔母たちに「今まで充分頑張ったんだから、もう楽にさせてあげましょう」と言いました。
その後、訪問看護師さんと医師が死亡の確認をしました。
それにしても凄い、俺が休みの日に逝ってくれという約束を守って日曜日、
その日に来る予定の家族全員とちゃんとお別れをして、見事な最後でした。
訪問看護師さんが見守っていた家族全員の前で言いました。
「こんな完璧な幕引きをする人はまずいないのですよ、お母さんは凄い人です」と
私も自分の母のことながら本当に立派で自慢の母でした。
主がいなくなってしまった車椅子 PHOTO by のりさん
主がいなくなってしまったベッド PHOTO by のりさん
読みながら涙ぐんでしまいました。
自分は20代なのでまだまだ先だと思いますが皆が会いに来てくれてちゃんとお別れできる最後を迎えたいです。
by やまちゃん (2013-07-24 23:26)
やまちゃんさん>ありがとうございます。
また母については書きたいことがあるので後で書きますが、
自分がここまで母のために出来たのには理由があります。
20代のやまちゃんさんも両親を大切にして下さい。
後で後悔しないように。
by のりさん (2013-07-25 00:33)
お母様、ご愁傷様でした。。。。本当につらく悲しいことですが、この数年間一生懸命介護されていたのりさんは本当に立派で親孝行だったと思います。お母様もきっと幸せだったと思います。ご冥福をお祈りいたします。
by 中野陽子 (2013-07-26 18:52)
中野さん>久し振りだね、ありがとうね。
また小学校の時の仲間で集まりたいね
by のりさん (2013-07-26 18:55)
本当に素晴らしいお母様でしたね
自分も昨年の親父の最期を思い出しました
by haku (2013-07-27 16:30)
hakuさんのお父様はhakuさんと共通の音楽と言う趣味がありましたからね。
親子で同じ物に興味があるというのも素晴らしいことですよ。
我家の場合は父より母の方が考え方、好みとも自分と似ていました。
by のりさん (2013-07-28 02:19)